苦労は買っでもしろ!
《苦労は買っでもしろ!》 なんて何やら道徳的、教育的で、下手すると自虐的、サディスディックな感じですね。お爺ちゃんの根性論みたい。お爺ちゃんは、苦しいの大好き。
「最近の若い奴は、苦労が足らない!」というセリフも年配者の定番ですね。
そういえば、似たような諺がいっぱいあります。
急がば回れ
苦あれば楽あり
可愛い子には旅をさせろ
人生の苦しい事に笑顔であたろう(学校のモットーだった)
右の頬を打たれら左頬を差し出せ(ちょと違うような気もするけどキリストの教え。マゾヒスティックな教え )
難問の解決に富がある(こんな諺あったけ?)
僕は《楽しい》という気持ちがとても大切と考えていますけど、最近《苦労は買っでもしろ!》 というのがわかる気がします。年なんでしょうか。
苦労って一体なんなんでしょうか?
そもそも、辛いこと、苦しいこと、《苦》って感情の世界の話しですよね。かならずしも《事実》ではない。
〈苦労〉って感情的な出来事
痛い、苦しい、辛い、つまらない。解らない、怖い、知らない不安なこと。それは気持ちとして、つまり感情として、味わいたくない嫌なことなのですね。
楽をお金で買うのが当たり前
〈苦労を買え〉と言いますが、お金さえ出せば苦労をある程度回避出来るのが現代なのではないでしょうか。その意味では、苦労はお金のない事の別名のように受け取られます。だから、《苦しい》、《辛い》の解決策は、お金を手に入れることなのです。それは、ある程度真実ではないですか。
かたや苦痛や苦労の回避して代行をお金で買う、楽をお金で買う。もう一方は苦痛や苦労を富を差し出してでも《苦》体験しようとする。
ここに二つの相対する戦略が示されたことになります。
〈辛い体験〉の向こう側
否定的な感情の体験をいっぱいすることに富を差し出してでもすることの目的はいつたい何なのでしょうか?辛く苦しくて、嫌だという感情の耐性、慣れる事が目的なのでしょうか?
「買ってでも」というところに強い目的意識を感じます。
痛い、苦しい、辛い、つまらないと私たちが思うところは、知らないこと、未経験なこと、あるいは苦手なことなのではないでしょうか?
知らないこと、未経験なことには不安があり恐怖があります。
僕達の感情は、結果の見えないリスクの伴うところからは逃げようとします。
感性は、安定したルーチンワークが大好きなのです。
苦しいことを回避した結果、益々強固な未経験、無知、苦手が作られる。
《嫌だ》という無意識の感性の自然な流れに対抗して、克服する方法をかんがえるなら、敢えて嫌だ、苦しいと感じたことに立ち向かって行く。感性的な耐性、慣れを意図的に作る作戦のようです。
また、逃げているところには、解明すべき課題がある可能性が高いのではないでしょうか。
もし、《苦労は買ってでもしろ》が今日においても価値あるテーマであるのは、《無知・未明》が僕たちの前進の妨げになっているからではないのでしょうか。
漁師と魚
ちょっと話は逸れそうですが漁師と魚の対決を思い描いてみて下さい。漁師は魚の生存本能や性格を利用してトラップを仕掛け釣り上げるのです。魚はまんまと生きようという生理反応の仕組みが死に導くことになるのです。《苦》《楽》は感情の世界の話であることをはっきりと分かれば、かならずしも《事実》ではないことが分かれば対処も変わってくるのです。ただ釣られる魚である必要はないのです
上手くいくこと、これは楽なことです。何も準備しないでスムーズにいけば快適ですよね。しかし、この快適さの中に成長、訓練、獲得といつた要素がどれだけあるでしょうか。
〈辛い体験〉には大した意味はない
《苦労は買ってでもしろ》には本当は、道徳的な事ではなく、嫌なこと、苦しいことに敢えて挑む、道徳的で自虐的なニュアンスばかりが際立つと話は苦労比べや苦労自慢のお話しになってしまいます。 僕たちが求めているのは、知ることであり、知るこことの先であり、知ることの前にある感情的障害の対処です。〈辛い体験〉は、あまり辛さに力を置き過ぎない方がいいと思います。それが《苦労は買ってでもしろ》に込められた本当のメッセージだと僕は考えます。 問題の解決にとつて、知っているか知らないか、認識しているか認識していないかで結果は、あるいは選択は大きく変わります。
商売(ビジネス)において、障害の多い、つまり効率の悪いことは儲からないとして嫌われます。僕も、そのような想いにかられる瞬間が多々あります。
しかし《無》から《有》を生むということは障害の少ない、効率の良いことなのでしょうか。目の前の利益を大いにあげて、《楽》を手に入れても未知の、未解決の明日を手に入れているとは限らないのです。
選択に迷ったら、厳しい道を行く
先日テレビを見ていたら、脳外科の医者がこのように言っていました。手術、治療の行為は選択・決断の連続であるが選択に迷ったら《厳しい道》を選ぶと。
よくわかると云うには、僕は道半ばすぎます。しかし、不覚にも《そうだろうな》とうなづいてしまいました。